鐵道の進歩は非常の速力を以て鐵軌レールを延長のばし道路の修繕は縣官の功名心の爲に山を削り谷を埋うづむ今ま三四年せば卷烟草一本吸ひ盡さぬ間に蝦夷ゑぞ長崎へも到りヱヘンといふ響きのうちに奈良大和へも遊ぶべし况いはんや手近の温泉塲など樋とひをかけて東京へ引くは今の間まなるべし昔の人が須磨明石の月も枴おふごにかけてふり賣にやせんと冷評せしは實地となること日を待たじ故に地方漫遊のまた名所古跡一覽のと云ふ人は少し出立でたちを我慢して居ながら伊勢の大神宮へ賽錢あぐる便利を待つたが宜よささうなものといふ人もあれど篁村くわうそん一種の癖へきありて「容易に得る樂みは其の分量薄し」といふヘチ理屈を付け旅も少しは草臥くたびれて辛い事の有るのが興多しあまり徃來の便を極めぬうち日本中を漫遊し都府を懸隔かけへだちたる地の風俗を交まぜ混こぜにならぬうちに見聞けんもんし山河やまかはも形を改ため勝手の違はぬうち觀て置きて歴史など讀む參考ともしまた古時いにしへ旅行のたやすからざりし有樣の一斑をも窺ひ交通の不便はいかほどなりしかを知らんと願ふこと多時なりしが暇。金。連つれの三みつ折合ずそれがため志しばかりで左さのみ長旅はせず繪圖の上へ涎よだれを垂して日を送りしが今度其の三ツ備はりたればいでや時を失ふべからず先づ木曾名所を探り西京さいきやう大坂を囘めぐり有馬ありまの温泉より神戸へ出て須磨明石を眺め紀州へ入いりて高野山へ上のぼり和歌の浦にて一首詠み熊野本宮の湯に入いりてもとの小栗と本復しと拍子にかゝれば機關からくりの云立いひたてめけど少しは古物類も覗のぞく爲に奈良へ

りて古寺古社に詣まうで名張越なばりごえをして伊勢地に入いり大廟にぬかづき二見ヶ浦で日の出を拜み此所このところお目とまれば鐵道にて東海道を歸るの豫算なるたけ歩いてといふ注文三十日の日づもりで行くか歸るか分からねど太華山人たいくわさんじん。幸田露伴かうだろはん[#ルビの「かうだろはん」は底本では「かうだろばん」]。梅花道人ばいくわだうじんの三人が揃つて行かうといふを幸ひ四人男出立いでたちを定め維時これとき明治廿三年四月の廿六日に本願の幾分を果すはじめの日と先づ木曾街道を西京さして上る間の記を平つたく木曾道中記とはなづけぬこれは此行四人とも別々に紀行を書き幸田露伴子は獨得の健筆を大阪朝日新聞社へ出いだして「乘興記じようきようき」と名づけ梅花道人は「をかしき」といふを讀賣新聞へ掲げ太華山人は「四月の櫻」と題して沿道の風土人情を細こまかに觀察して東京公論へ載するにつきまぎれぬ爲にしたるなり此の旅行の相談まとまるやあたかも娘の子が芝居見物の前の晩の如く何事も手につかず假初かりそめにも三十日のことなればやりかけたる博覽會の評も歸つてからまた見直すとした處で四五日分は書き溜てザツト片を付けねばならず彼是かれこれの取まぎれに何處どこへも暇乞いとまごひには出ず廿五日出社の戻りに須藤南翠すどうなんすゐ氏に出會ぬ偖さて羨やましき事よ我も來年は京阪漫遊と思ひ立ぬせめても心床こゝろゆかしに汝おんみの行を送らん特ことに木曾とありては玉味噌と蕎麥そばのみならん京味を忘れぬ爲め通り三丁目の嶋村にて汲まんと和田鷹城子わだおうじやうしと共に勸められ南翠氏が濱路はまぢもどきに馬琴ばきんそつくりの送りの詞ことばに久しく飮まぬ醉ゑひを盡し歸りがけに幸堂かうだう氏にまた止められ泥の如くなりて家に戻り明日あすは朝の五時に總勢此こゝに會合すれば其の用意せよと云ふだけが確にて夢は早くも名所繪圖の中うちに跳をどり入ぬ
第二囘
博覽會開設につき地方の人士雲の如くに東京に簇集あつまりきたる之これに就て或人説をなして米價騰貴の原因として其の日々にち/\費す所の石數こくすうを擧げたるがよし夫それまでにあらずとも地方は輕く東京は重き不平均は生じたるならん我々四人反對に東京より地方へ出て釣合をよくせんと四月廿六日の朝上野の山を横ぎりて六時發横川行の

車に乘らんと急ぎしに冗口むだぐちといふ魔がさして停車塲ステーシヨンへ着く此時おそく彼時かのとき迅はやく

笛一聲上野の森に烟けぶりを殘して

車はつれなく出いでにけり此こゝが風流だ此の失策が妙だと自みづから慰むるは朝寐せし一人にて風流ごかしに和なだめられ

車に乘おくれるが何が風流ぞと怒つたところで可笑をかしくもなければ我も苦笑ひして此方こなたを見れば雜踏こみあひの中を飄然として行く後ろつき菊五郎おとはやに似たる通仕立つうじたての翁おきなあり誰ぞと見れば幸堂得知かうだうとくち氏なり偖さては我々の行を送らんとして此こゝに來て逢はぬに本意ほいなく歸るならん送る人を却つて我々が送るも新しからずやと詞ことばはかけず後うしろについて幸堂氏の家まで到り此こゝに新たに送別會を開きぬ我三人に萬よろづの失策皆な酒より生ず旅中は特ことにつゝしむべしと一句を示す
一徳利ひとゝくりあとは蛙かはづの聲に寐よまた新らしく瀧澤鎭彦たきざはうづひこ幸堂得知の兩氏に送られ九時の

車に乘り横川までは何事もなく午後一時三十分に着せしが是からが英雄競くらべ此碓氷嶺このうすひたふげが歩く邪魔にならば小脇に抱へて何處どこぞ空地へ置てやらうと下駄揃にて歩み出いだせしが始めのうちこそ小石を蹴散し洒落しやれ散したれ坂下驛さかもとえきを過るころより我輩はしばらく措おいて同行どうぎやう三人の鼻の穴次第に擴がり吐つく息角立かどたち洒落も追々おひ/\苦しくなり最もうどの位來たらうとの弱音よわね梅花道人序開きをなしぬ横川に

車を下おりて直すぐに碓氷の馬車鐵道に乘れば一人前四十錢にて五時頃までには輕井澤へ着きまた直ちに信越の鐵道に乘れば追分より先の宿しゆく小田井をだゐ(停車塲ステーシヨンは御代田みよだといふ)まで行くべきなれど其處そこが四天王とも云いはるゝ豪傑鐵道馬車より歩いて早く着いて見せんとしかも舊道の峠を上のぼりかけしが梅花道人兎角とかくに行なづむ樣子に力餅の茶店に風を入れ此こゝにて下駄を捨てゝ道人と露伴子は草鞋わらじとなりしが我と太華山人は此の下駄は我々の池月摺墨いけづきするすみなり木曾の山々を踏み凹くぼませて京三條の大橋を踏轟ふみとゞろかせて見せんものと二人を見て麓より吹上る風より冷かに笑ひつゝ先んじて上のぼる上りて頂上に近くなれば氣候は大おほいに東京とは變りて山風寒さぶし木の間がくれに山櫻の咲出たる千蔭翁ちかげをうが歌の「夏山のしげみがおくのしづけさに心の散らぬ花もありけり」とあるも思ひ出られて嬉しく頻しきりに景色を褒め行くうち山人汗を雫しづくと流して大草臥おほくたびれとなれば露伴子は此こゝぞと旅通を顯して飛ぶが如くに上のぼる此こゝに至つて不思議にも始め弱りし梅花道人ムク/\と強くなり山も震ふばかり力聲を出いだしサア僕が君の荷を持たうしつかりして上のぼり玉へと矢庭に山人の荷物と自分の荷を合せて引かつぎエイ/\聲に上りしは目ざましきまで感心なり拙者は中弱ちうよわりの氣味にて少し足は重けれど初日に江戸ツ子が泣なきを入れたりと云れんは殘念なればはづむ鼻息を念じこらへてナニサ左樣さうでもないのサと平氣をつくろひ輕井澤に下おりて鶴屋といふに着き風呂の先陣へ名乘て勇ましく風呂へ行きしが直ちには跨またぎて湯に入いられず少しく顏をしはめたり